「動きながらの撮影には慣れているんですが、ポーズを決めて写真を撮られるのは恥ずかしいですね。緊張します」
【初々しい…】超レア!元TBSアナウンサー小倉弘子「入社2年目の美しすぎる着物姿」写真
そうはにかみながら微笑(ほほえ)むのは、フリーアナウンサーの小倉弘子(50)だ。小倉は昨年いっぱいでTBSを退社。今後の目標を「色紙に書いてください」とお願いすると、勢いのある字でこう記した。
〈生涯 喋(しゃべ)り手〉
『ランク王国』や『筑紫哲也NEWS23』『おはようクジラ』など、幅広いジャンルの番組で活躍した小倉。’97年4月の入社以来27年間を過ごしたTBSでの女性アナ人生と、退社に至ったホントの理由を、2時間にわたり語った――。
小倉が女性アナという職業に興味を持ったのは、小学校低学年の時だ。
「キッカケは『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)でした。目を引いたのが、華(はな)やかな服を着てタレントたちと掛け合う女性アナたちです。他の番組では、ニュースを読んだり司会として場を仕切ったり。楽しそうにさまざまな仕事をするのが『ズルい!』と感じたんです」
小学校から高校まではボランティア活動をし、クリスマス会などでメンバーを仕切るのが大好き。人前で話すのも苦ではなく、女性アナへの興味は高まった。
「(東洋英和女学院)大学時代に、当時始まった『恋のから騒ぎ』(日本テレビ系)に出たこともあります。広告代理店でアルバイトをしていたんですが、社員の方に『番組で女子大生を募集しているから行ってみたら』と誘われて。明石家さんまさんに会えるとミーハーな気分で出演したのが、『恋から』の第1回です。
男性からの告白は『ウソくさい』と発言すると、さんまさんから『男が可哀そうやないかい!』とツッコミが入って……。記念すべき『説教部屋』第1号となりまして、テレビの楽しさを実感しました」
◆「本気でやる気あるの?」
就職活動が迫り、小倉はアナウンサースクールに通い始める。ところが――。
「3ヵ月3万円ほどのコースでしたが、講師の先生に厳しくたしなめられました。『授業料は自腹だからいいか』と遅刻したり、翌日から旅行に行くからとスキーの板を持って出席したり……。『本気でやる気あるの?』と叱られて。それで一念発起です。
毎日テレビのニュース番組をチェックし、全国紙にはすべて目を通しました。おかげで新聞を読んだことのなかった私でも、世の中の流れを多角的にとらえられるようになったんです」
努力の末、TBSに合格。新人時代の担当は、『おはようクジラ』『はなまるマーケット』など朝の情報番組だった。
「ツラかったですよ~。夜が明けない早朝2時に出社する毎日です。起きることより、夜9時までには眠らなくちゃならないことのほうが慣れませんでした」
スポーツを担当することも多かった。
「『炸裂!スポーツパワー』という番組では、プロ野球選手の愛車の助手席に乗って球場から帰宅するまで話を聞くコーナーを担当しました。台本などなく、ぶっつけ本番。無造作に置いてあるアンパンを見て『アスリートも菓子パンを食べるんですね』とノー天気な感想を言ったり、『緊張しましたか』と質問して『当たり前だろ!』と叱られたり……。振り返るとハラハラするような内容でしたが、どんな状況でもとっさに質問をするための良い訓練になったと思います」
◆夫との出会いと、初めて好感を持った出来事
同番組では運命の出会いがあった。
「川合俊一さんや陣内貴美子さんら出演者が、控え室でゲラゲラ笑い盛り上がっていたことがありました。場の中心にいたのが、浦和レッズなどでプレーした元サッカー選手の水内猛(52)。後の夫です。年が近いこともあり、みんなで食事をするなど親しくなりましたが『よく喋る人だなぁ』というぐらいの印象でした」
二人の仲が急接近したのは、松井秀喜のメジャー移籍がキッカケだった。
「松井さんがヤンキースと契約合意した’02年12月は同時多発テロの直後で、タレントが大挙して米国に行く雰囲気ではありませんでした。結局、キャンプなどで詳しく取材した女性アナは私だけ。帰国すると水内が熱心に食事に誘ってきたんです。
質問は『野手と投手では練習が違うの?』『トレーニング内容は?』と、メジャーのことばかり。元サッカー選手ですが、少年野球もやっていた大の野球ファン。スポーツキャスターとして必死に学ぼうとしていたのでしょう。『意外とマジメなんだ』と初めて好感を持ちました」
当時二人の交際を報じた本誌(’03年10月24日号)の誌面を見て、「ウフフ」と照れる小倉(2枚目写真)。’05年4月に結婚し、3人の子供に恵まれる。
「子供の反応を見て、報道のあり方を考えさせられたのが’11年3月の東日本大震災です。
職業柄、帰宅するとスグにテレビをつけます。しかし震災の映像を見て、当時、保育園に通っていた長女がブルブルと震えている。恐かったのでしょう。もちろん、テレビを消すという選択肢もありました。しかし自然災害の恐ろしさを伝えるためには、テレビ局で働く人間として映像を流す必要があると感じた。
一方で、ただ衝撃映像を放映すれば良いというものでもない。見る人への配慮も必要でしょう。例えば『これから津波の映像が映ります』と、事前にテロップを入れるのも大切なことだと思います」
40代半ばで管理職になると、心境に変化が現れた。
「私がやりたかったアナウンサーの仕事は、徐々に減っていきました。『このままでいいのかな』と悶々(もんもん)としている時に、決定打となったのが新型コロナでした。
管理職として20人近いアナウンサーのスケジュールを調整する必要があり、自宅で休んでいても『〇〇アナが発熱。早朝2時からの番組MCの代役手配を至急お願いします』などの電話が夜中でも頻繁にかかってくるんです。子供たちも『お母さん、また電話なの~?』と不満な様子で……。私も自分を見失っていたのでしょう。余裕のない様子を見かねた夫が、声をかけてくれたんです」
水内は、こう言ったという。
「もうムリしなくていいよ。アナウンサーの仕事がやりたいんでしょう」
小倉は夫の言葉に背中を押される。
「私を育ててくれたTBSには、心から感謝しています。でも、私は喋り手の仕事を続けたい。それで50歳の節目に退社することを決めました。当面の夢は、フリーとして再びTBSの番組の司会をすることです。できればラジオ。テレビは大勢の人に伝えるというイメージですが、ラジオにはリスナー一人ひとりと対話するような温かみがある。50歳になったからか、そんな人間味が心地良いんです」
〈生涯 喋り手〉と腹をくくった女性アナが、再スタートの一歩を踏み出す。
『FRIDAY』2025年3月14・21日合併号より