女優・歌手の中山美穂さんが入浴中の不慮の事故でこの世を去り、各界から悲しみの声が相次いでいます。まだ54歳という若さでした。この記事では生前の中山さんや、かつて熱愛が報じられた田原俊彦さん、そして工藤静香さんをたびたび取材してきた芸能記者歴30年のベテランジャーナリスト・芋澤貞雄さんが、追悼の意を込めて当時の思い出を振り返ります。
中山美穂さん死去で蘇る「田原俊彦との熱愛騒動」の記憶
12月12日、中山美穂さんが華やかな祭壇に囲まれ、青空の中へ旅立って行ったことが所属事務所の公式HPで報告されました。
フランスで暮らしている“幸せを願ってやまない愛する息子”さんとも再会できたと、妹で女優の中山忍もコメントを残しています。
私が中山美穂さんのことで真っ先に思い出すのは、1991年1月に公になった、 田原俊彦とのハワイ旅行騒動 です。
出発前に、田原の自宅マンション前に集まったたくさんの報道陣をかき分け、成田空港に堂々と向かう2人の姿が鮮やかに蘇ります。
2人の背中から、何か力強いオーラというか、強い意思を感じたものです。
当時のトップアイドル同士の旅行騒動で、今でも私の脳裏から消えないのは、私が所属していた週刊誌編集部内での、ジャニーズ事務所(田原俊彦)担当記者と、バーニングプロダクション(中山美穂)担当編集者との、 記事タイトルをめぐる小競り合い です。
“ 田原のダメージが最小限で済む”タイトルにしたいJ担記者と、“ 中山の所属事務所社長に怒鳴られない”タイトルを主張するB担編集者のぶつかり合い、いわば“暗闘”です。
締め切りギリギリの深夜遅く…窓の向こうがだんだん明るくなっていく様がわかる時間まで、両者のせめぎ合いは続き、2人の間を新人編集者が「 これではどうでしょう」「 もう少しここをこうして…と言われたのですが…」と行ったり来たりしていたのが、どこか滑稽でもありました。
当時の私も、この2人の追跡取材には何度も駆り出されたものです。
特に印象に残っているのは、その頃、新宿区河田町にあったフジテレビでの取材でした。
お台場に移転する前のフジテレビ 局舎は、東京女子医大病院の隣と言っていいほどの場所にありました。
駐車場は局舎の入り口の隣で、屋内でも地下でもない、誰もが目視できるとても分かりやすい場所にありました。
当時は終日この駐車場を見ているだけで、タレントの移動車輛のナンバーや、お付きの関係者スタッフの顔まで、すべて簡単に確認できたのです。
昔、毎年正月には『 新春かくし芸大会』なる番組がフジテレビで放送されていました。
生放送だったり録画だったりしましたが、毎年大体11月に入った頃から、この番組のための 様々なトレーニング…特訓 が局舎内のスタジオを使って繰り広げられたものです。
女子医大通り側道の、金網越しに張り込んでいた古き良き時代の芸能取材の余韻が、今でも鮮やかに蘇ってきます。
一時は工藤静香さんと「共演NG」も、近年は一番の“心友”に
中山さんへの取材の数々を紐解けば、どうしても避けて通れないのが 工藤静香 の存在です。
学年で言えば違いますが、生まれた年は同じ1970年。
2人とも1985年にデビュー、中山さん伝説のドラマ『 毎度おさわがせします』の、初出演放送日は1月8日で、静香が『 セブンティーンクラブ』というグループでデビューしたレコード発売日は1月21日… 芸能記者の間ではライバル視されていた2人 です。
デビュー直後はテレビ局の廊下ですれ違っても、“ 挨拶はしないし目も合わせない”と、本人たちはどう思っていたのかはわかりませんが、面白おかしく言い伝えられたものでした。
デビューから3年後、2人は ドラマで共演したことをきっかけに急接近、プライベートで一緒に遊びに行く姿が、度々芸能関係者に目撃されるようになっていきました。
ところがこの約3年後、 2人の仲は田原俊彦を挟んでひび割れ てしまいます。
「私の彼氏を誘惑したでしょ!」
「誘惑したのはトシちゃんの方からだもん!」
言葉にするとこんな感じでしょうか、それ以来2人は 共演NG となり、歌番組で一緒になっても楽屋は端と端…番組中の絡みも一切無くなりました。
1990年代後半から2000年代、2人は仕事にプライベートに、走り抜けて生きてきたように思えます。