タレント・みのもんたさんが3月1日、80歳で死去した。1月中旬に東京都内の焼き肉店で肉をのどに詰まらせて救急搬送され、一時、意識不明の状態だったという。朝と昼の帯番組を独占してテレビ界の頂点に立った男は、いかにしてその人生を酒と仕事と女に捧げたのか。
前編【「朝青龍が“みのさんには勝てない”と語るほどの酒豪」 みのもんたさんの“豪快伝説”について徳光和夫が明かす】では、みのさんの酒豪伝説、彼の人生を大きく変えた二つの転機について報じた。
35歳で文化放送を退社し、家業を手伝いながら「プロ野球ニュース」(フジテレビ系)で土・日曜のキャスターを務め上げたみのさんは、1983年に始まった同局の特別番組「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」のナレーターに抜てきされる。
番組での名調子が好評を博し、その後「なるほど! ザ・ワールド」(フジテレビ系)のレポーターなどを経て、ついに89年4月、44歳にして人生最大の転機を迎える。参院選出馬で「おもいッきりテレビ」を降板した山本コウタローに代わり、2代目総合司会に抜てきされたのである。
立教大学「放送研究会」の先輩後輩の間柄で、フリーアナウンサーの徳光和夫氏(84)が打ち明ける。
「『おもいッきりテレビ』のスタッフから“番組を主婦向けにしたいんですけど、いい司会者いませんか”と聞かれましてね。僕は“御法川がいい。銀座で無理して遊んでいるうちに男の色気も出てきた。軽妙な喋り方だけでなく、醸し出す雰囲気は、間違いなく主婦の皆さんにウケる”と大推薦しました。それで、彼に白羽の矢が立ったのです」
結果的にこの起用は大成功だった。
「開始から半年くらいで(裏番組の)『笑っていいとも!』の数字を超えました。客席には年配の女性が多かったのですが、彼は必ず“お嬢さん”と声をかけてね。70代、80代でもお年寄りではなく、女性として扱うわけです。遊び心を知っているからこそできたことでしょう」(チーフプロデューサーを務めた白石重昭氏〈80〉)